昭和52年8月1日、客室3部屋定員15人、北海道サロベツ原野の小さな宿あしたの城はオープン。24歳で城主となった父ちゃんだったが、営業を始めた年は、宿に電話がついていなかった。。
宿をやろうっていうのに、電話がついていないというのが、今の感覚で言うと信じられないんですけどねえ。
といってもあの頃は、ここ豊徳地区に電話がある家は2軒しかなかったんですよ。
電話が無くてどうやって予約を取ったんですか?
ほとんどトシカの宿の、Kさんからの紹介です。
いつ、何人来るか、分からないわけでしょう?
そうですよ。だからバスの到着する時間に家にいて、来たらそれでみんな泊めていたんです。5人も来るともう、パニックになっちゃってね。
そう言えば、まさしく宿を始めた年に泊まりに来たというお客さんが20年以上ぶりに泊まりに来てくれたことがありましたけど、「旅行していてここの民宿の噂を聞いて知った」って言っていましたね。「電話が無いから予約が出来ないって聞いてびっくりして、大丈夫かなと、半信半疑で泊まりに来た」とか私に話してくれましたよ。
当時のお客さんはふつ~のお客さんというより、そういうのを珍しがってどういうところかちょっと泊まってみるか、みたいな感じの好奇心が強い若い人が多かったかもしれないですね。
今と違ってHPで宣伝することもないし、「とほ」と言う広告雑誌もないし、ましてや旅行雑誌に載せてくれることも無かったんですものね。それでお客さんが来てくれたのは、トシカの岸さんの紹介や、クチコミって、大きかったんでしょうね。最初の年の宿代は、いくらだったんですか?
2食付で、1,980円だったかな。だいたいユースホステルと同じぐらいに設定してましたね。
昭和52年(1977年)とはいえ、1,980円かあ。。
お金が無かったんでね、来たらすぐに受付して、宿代もらって買い出しに行ったんですよ。何を食べたい?なんてお客さんに聞いて、買い物に行って、それでお金を全部使ってしまって。
え~っ、それじゃあ利益が残らないじゃないですか。
おまけに俺、野菜炒めしか作れなかったもんで、お客さんに夕食を作ってもらったこともあります。
お客さんに食事を作ってもらう??よくそれで宿屋商売をやれましたねえ。。。
宿をはじめたものの、料理を知らない父ちゃんは、実践にて料理を覚えていくノダ。
今でこそあしたの城の名物「牛乳鍋」、父ちゃんが考え出した全くのオリジナル料理で、おいしいといってくれたり、是非食べたいからって、お客さんからご指名がかかったりしますけど、実は苦肉の策だったんですよね。
そう。俺はあんまり料理を知らなかったから、切るだけの簡単な料理は鍋料理、そしてしぼりたての牛乳が手に入るから、牛乳を使ったここだけのオリジナル鍋料理を、というので、牛乳鍋を考え出したんです。
宿をやりだして2年目ぐらいから出していたそうですが、最初から今の味ではなかったんでしょ。
ええ、最初は牛乳だけ入れて焚いてみたら、まずくて食えなくて、次は塩コショウを入れてみたり、やっぱりそれだけじゃまずいんで、その次は醤油を入れてみたり、、、、
そういう試行錯誤の段階で、お客さんに出していたとか。。。
そうですよ。俺も一緒にお客さんと食べて、「あ~今日の味付けは失敗だあ、明日はどういう味付けにしよう」なんて言ったら、お客さんに、「え~、明日もまた牛乳鍋かよ~」と言われたりしてね。
よくお客さん怒らなかったですね。
そう文句言いながら、その頃は10日、20日と、連泊するお客さんはゴロゴロいたねえ。「もう勘弁してくれ」なんて言いながら連泊して、牛乳鍋の悪口言いながら食べているんだよな!
昔の常連さんが来ると、「まだ牛乳鍋やってんの!」とか、「白い悪魔」とか「白い恐怖」とか、悪口言いたい放題ですよね
それが今じゃ、わざわざ牛乳鍋を食べたいといってお客さんが来てくれるようになったんだものねえ。その評判をあいつらに聞かせてやりたいよ。。
5年の月日をかけて牛乳鍋が完成されたわけですけど、そういう昔のお客さんの尊い犠牲(?!)の上に成り立っているんですねえ。。。
今なら許されないですよね。みんな若かったから許されたのかなあ。
ネットの無い時代だから許されたんですよ~!今なら大炎上で大変なことですよ。父ちゃんも無茶苦茶だったけど、そんな無茶苦茶を楽しんでくれた(耐えてくれた?)その頃のお客さんにお礼を言わなくちゃね。今の牛乳鍋は完成された味ですから、初めてのお客様は安心して来てください!
最初の年は、延べ宿泊者人数152人。8割がトシカの宿からの紹介、後はクチコミだった。当然生活は出来ず、それから5年間父ちゃんは冬に東京へ出稼ぎに行くのだった。