長崎の佐世保で生まれ育った父ちゃんは高校を卒業後、大阪で就職しますが、半年ほどでやめ、沖縄へ旅に出かけます。 昭和48年1月のことでした。
母ちゃん最初は北海道じゃなくて、沖縄を旅したんですね。
宿主なんとなく、どこか遠いところへ行きたくなって、前の年に日本に返還されたばかりの沖縄へ行ったんですよ。二十歳の成人式の日、沖縄へ行くフェリーの中だったのは、今でもよく覚えているなあ。
母ちゃんその時の写真、発掘したんです。箱の中にぐちゃっと放り込んであったでしょ!
宿主うわ~っ、懐かしいな~。二十歳のころの俺だ!友達のYと二人で行ったんです。一緒に行動すると喧嘩ばかりするんで、現地で分かれたんですけど、結局見て回るところも貧乏人が泊まれる宿も決まってくるんで、行く先々でしょっちゅう顔を合わしてましたね。
母ちゃんうふふ、なんか想像できるなあ!そのYさんとは、喧嘩しながらもずっと関係は続いていくんですもんね。
母ちゃん返還されたばかりの沖縄だったら、観光開発もまだされてなくて、素朴だったんでしょうね。
宿主海がとにかくきれかったなあ。お金がなくなったら大坂に舞い戻ってアルバイトをして資金を貯めてね。Y君は学生だったんで、2回目は俺一人で沖縄に行ったんです。俺よりも2歳ぐらいしか違わない人なんだけど、まだ沖縄が返還されていない時代に本州から竹富島に移住して、畑をやったりヤギを飼ってる人と知り合いになって、その人のところに居候したりして。結局沖縄にはトータルで8ヶ月ぐらいいたかな。
母ちゃんそれから北海道へ行ったのは、やはり遠くへ行きたい気持ちですか?
宿主いや、沖縄で出会った旅仲間たちが、北海道も良いぞ、ってよく言ってたんです。竹富島で居候していた時、他にも一緒にいた人がいて、その人が北海道出身の人で。それで北海道の話を聞いているうちに、よし、じゃあ今度は北海道へ行ってみようって気になってね。
母ちゃん沖縄の竹富島でその人たちと出会って、北海道に行く気になって、そして今につながっていくんですね…。
北海道で一ヶ月ばかり旅をするうちに、道北の浜頓別で旅人が宿を始めるという噂を聞きます。
母ちゃん今でこそ、旅人が始めた宿ということで「とほ宿」と言うネットワークも出来て、道内に何十軒もそういう宿があって、珍しくもなんともないけれど、その当時としては、そういう宿はなかったわけでしょう?
宿主貧乏な若者が泊まれる宿って言うと、ユースホステルぐらいしかなかったから、東京から来た旅行者が北海道に住み着いて、宿を始めるって言うのはすごく新鮮に聞こえてね。どんな人がやるのか、どんな宿なのか見てみたくて、訪ねて行ったんですよ。
母ちゃんそれが、トシカの宿初代オーナーの、Kさんとの出会いですね。
宿主行った時、宿オープンの数日前で、Kさんから、「もうじき結婚するんだけど、それまで俺一人で大変だから手伝ってくれないか」って頼まれて、どっちみちどこかでアルバイトでもして、もう少し北海道にいようと思っていたから、引き受けたんですよ。それでKさんのお嫁さんが来たとき、俺は辞めて出て行こうとしたんだけど、Kさんから「嫁さんも慣れなくて大変だから、もうしばらくこのまま手伝ってくれ」って頼まれて、結局そのまま2年間もトシカでヘルパーをしました。
母ちゃんトシカの宿は、とほ宿の草分け的な存在だけど、父ちゃんはその初代ヘルパーだったんですね。
宿主Kさん自身は、11年ぐらいで宿をやめちゃって、今のトシカのオーナーは2代目になんだけどね。
母ちゃんKさんは、父ちゃんにとっては宿の師匠にあたる人ですね。いろいろ厳しく仕込まれましたか?
宿主師匠と言っても、Kさん自身はあまり表に出なくて、接客なんかは俺の好きなようにさせてくれたからね。夜の飲み会で、お客さんと一緒に飲んで盛り上がったりとか、昼間は自転車で岬までよく走ったりとか。ほんと、自由にさせてくれたなあ。だからこんな俺でも2年間ヘルパーをやれたのかな。
母ちゃん人生に運命的な出会いがあるとすれば、Kさんは間違いなくその中の一人ですか。
宿主う~ん、運命的なのかどうなのか、確かにKさんのもとでヘルパーをしなければ、宿をやる気になったかどうかは分からないですね。とにかくKさんはパワーとガッツのある人で、今でも連絡は取りあっているし、会ってK節を拝聴しないことには、なんだか力が出てこないですよ。
2年間トシカの宿でヘルパーをした後、父ちゃんは自分で宿を開くことを決心します。
母ちゃんやはり、ヘルパーをしているうちに宿をやりたいって、思うようになったんですか。
宿主宿をやりたいっていうよりも、この仕事なら俺にでも出来るかなあって思うようになってきましたね。俺は今で言う「ぷー太郎」「フリーター」ってところでしたけど、その当時はそんな言葉なんかなかったし、社会的にも、そういう存在は受け入れられなかったですからね。何か仕事に就かないと、と言う気持ちは強くあったんでね。ヘルパーを2年間好きなようにやらせてもらって、この仕事なら、て思ったんですよ。
母ちゃん最初はサロベツじゃなくて違うところで宿をしようと思ってたんですって。
宿主トシカに来ていたお客さんから「十勝の大樹町が穴場的存在ですごくいい」って聞いてたんで、そこでやってみようかなと思って下見に行ったんですよ。でも行ったとき、天気が悪くてどんよりしていて、とても第一印象が悪かった。こんなところに住むのは嫌だなあと思って一日で帰ってきちゃった。
母ちゃんサロベツを勧めたのは、実はKさんだったそうですね。
宿主そうです。ヘルパーをやっていたときに、何回かエゾカンゾウを見に来たことはあったんですよ。そのときはきれいだなあとしか思わなかったけど、宿をやるなら、確かにサロベツだったらお客さんが来て良いかなあ、と思うようになって。
母ちゃん大樹町はその後あしたの城でヘルパーをやったA君が影響を受けて、「セキレイ館」と言う宿を始めるんですよね。
宿主彼も、今は2代目のオーナーに譲ってバイク用品店を札幌に出しているけどね。まあ、俺が大樹町に行ったとき天気よかったら、その後の人生も、出会いも変わっていたかもしれないね。
昭和51年の春。23歳だった父ちゃんは、大坂で勤めていたころに知り合った仲間S君と、沖縄に一緒にいくも喧嘩ばかりしていたというY君と、宿を建てるためにサロベツへやってきた。持ってきたのはテントと自炊道具。物もお金も知人も無かった3人だった。